どんな罪に対して謝罪し、誰が許しを求めるべきなのでしょうか!


以下の所にファルザードさんの刑務所からの手紙の訳を載せました。彼は 自分の逮捕から裁判判決までの経緯と、許しを求めて反省文を書くように、と言われた事に関して語っています。彼の手紙を通じてイスラム政権の実態を知って貰いたいのです。ちなみに、このような非道はファルザードさん一人だけに対して起きている問題ではありません。イスラム政権によってこの30年間ほどで十数万人の政治犯の生死が同じ形で決まり(いいえ、これよりもっと酷い例もいっぱいあると思います)、犠牲にされています。年齢と性別は関係なしに殺されているこれらの人間の事を誰に問うべきなのでしょうか。いずれこんな非道行為を平気で犯して来たイスラム政権の連中を国際裁判にかけるべきだと思いますが、皆さんはどうお考えなのでしょうか...
<基本的に我国の法律では政治犯の定義とそれに対する処分の決まりは存在しません。あるいはそれ以前の問題として指摘するべきなのは、イスラム法律そのものもは国際法律の基準を無視して出来た法律である事です。また、司法に就いている人たちの事ですが、彼らのほとんどは法律についての専門的な知識はないのです。それなのに彼らはイスラム法律を世界一の法律と主張し、その上で、自分たちの事を、政治と法律の優れ者だ、と思い込んでいるのです。彼らは、隠れイマームイスラム預言者)が現れるまでの間に自分たちを神の選ばれ士と考えています。彼らの哲学によると、多数の国民の意思と反対にも係わらず、支配権と法律の決まりとか社会の全ての事柄については少数派の彼らの方が権限を握る資格を持ち、それに反抗する事はあってはならないのです。国民の役割は単に彼らの決まりに従う事のみであり当然、反抗者は重い処罰を受けてしまいます。ここで、個人の利益を元にしてこの少数派にヒストリックとも言うべき形で支持を寄せる者の話を別とします。この少数派にとって社会のモデルは、1400年ほど前の時代に登場して来たイスラム教の時代と、恐怖を加えながら支配に従わせる時代の事です。こんな事で彼らの支配権の下とか法律の枠内には政治活動と政治犯の定義がなくても当然に思われます。
 こんな説明を先にしてからですが、ファルザード.キャマンギャルの私はこの国の市民としてまたは、この国の機関から正式に教師としての資格を得ている者である上で、国際的な常識と法律と人権条約を元にして自分の政治犯である事を明言します。そして今は時と場所が悪くも、先に述べたような人たちに捕らえられてしまっています。ここで読者の皆さんには私の逮捕と裁判までの経緯について語りたいと思います。
 1.私は06年8月にはテヘランで、違法な政治活動を行おうとした容疑(情報機関の主張)で逮捕されました。容疑はともあれ、逮捕後16ヶ月間を過ぎても何故か私には法律的な権利である弁護士を就ける事は許されませんでした。この16ヶ月間の出来事については以前の手紙でも述べていますが、取り調べの名の元で市民としての権利は何一つも守られず、あらゆる拷問を受けてしまいました。特に注目して貰いたいのは、ケルマンシャー市の判事の所へ行った時の事なのですが。彼は私の犯している罪と逮捕の理由を明確にせず、自分の部下に対して、犯してもない罪を白状させるため圧力と拷問を強めるようにと指示した事です(当時、もしもテヘランの情報機関の14局から私を取り戻すような指示が届いていなければ私はその場で殺されていたと思います)。こんなやり方を<専門的な取り調べ>と言い張る連中は、私の罪を教えた事と弁護士に合わせた事もなしでただひたすらと、お前の生死を決めるのは司法の誰でもなくここに居る俺たちだ、と言っていました。この連中はいつも私の死刑を予告しながら喜んでいました。
 2.驚く事に、人間潰しの情報機関で十六ヶ月間を過ごした後とテヘランとケルマンsシャ−市を往復されている間に何故か、私の容疑はぺザーク党(イランクル民主党)のメンバーとか爆薬の保存と爆弾を仕掛けようとした事(?)から、トルコのPKKのメンバーである事に変わってしまいました!!?勿論ですが、この容疑についても偽造としてでも証拠に成る物は私の裁判資料の中にありませんでした。
 3.新たな容疑を付けられた後の事なんですが、何故か今度はまたテヘランの革命裁判の30局が私の公訴をサナンダジ市の裁判へ委ねて来たのです。
 4.サナンダジ市での取り調べと拷問は2ヶ月に及びましたが、いったいここで私に求められている事と自分の問われている容疑は何だったのかは全く教えて貰う事はありませんでした。結果的に、今度はサナンダジ市の裁判が公訴をテヘランの革命裁判の30局の方へ戻しました。どうやら、これらの移動の目的はただ私の気分転換のためとか、三つの県での情報機関の優しさと拷問を味わせる事そして、どこに行っても空は同じ色だぞって事を教えたかっただけなのです。
 5.この<保安的シナリオ>のこれまでの流れはともかく、ようやく裁判所が決まり起訴が始まりました。しかし、まさにここはこのシナリオのピークだったのです。どうやら18ヶ月間を取り調べに掛けた時間は長過ぎたようでその部の後戻しを裁判でやろうとしたそうです。もちろシナリオのハッピーエンドを忘れずにです。私の起訴はたったの七分間で終わりました(聞き間違いはしていません。たったの七分間です)。しかしその間の三分間は起訴理由書を読み挙げるために過ぎてい来ました。判決の内容はやはり死刑に処する事だった。だが、この裁判は根本から無効であると言うべきです。何故なら、イスラム政権の憲法168条によるとこの裁判は公開に、陪審員と弁護士が居る所で行われなければなりませんでした。事実として裁判は公開にされておらず、陪審員も存在しなかったのです。それに、弁護士には答弁の時間を与えるところか、裁判が始まる前に私と会って挨拶するくらいの時間さえも与えて貰えなかったのです。ここで注目して貰いたいのはこの裁判で述べられた公訴の理由ですが、それはたったのPKKのメンバーである事の一点だけに成っていた事です。
 6.一ヶ月後に判事に呼び出された時に彼から、貴方のイスラム政権に対する敵対心と死刑に処する判断は裁判より前に情報機関の方で決まっていた、と伝えて来ました。勿論この話は私にとって初耳でもなんでもありませんでした。三つの県の情報機関ではいつも、死刑が決まっているよ、ってずっと聞かされていたからです。情報機関はあったかのようにも自分たちを司法の上に立たせて、これらの憲法30条(法律で皆は平等に扱われるべき)、23条(思想の検察を禁止する)、35条(弁護士を就ける権利を与える)、38条(拷問を禁止する)、39条(名義の毀損を禁止する)、58条(政府機関の独立を認める)、166条(容疑を証明出来る充分な証拠の提出を求める)、168条(政治犯の裁判を公開に行う)の事と、市民権の無視と、裁判規則の無視と、刑務所内規律の無視を犯しています。どうやら彼らはクルド州の市民運動と人権活動を潰すため必死なようです。また、私の死刑判決は隣の国(トルコ)の政治的な動き(イスラム政治の盛り上がり)とそれに親しみを表すために時期を同じにしているようです。その国の政権は1915年以降クルド人の弾圧を続けて来ています。全体的な面では両国の政権の方針が多いに食い違っていると思いますが。
 これまでの経緯を読んで貰った上でですが、果たして私は処刑にされるべきなのでしょうか。あるいは、私は自分の命を守るために彼らに許しを求めるべきと思いますでしょうか。謝罪と許しをどんな罪のためと誰に求めなければならないのでしょうか。自分たちの作った法律でさえを守らず、苦痛と拷問を私に加えて来た連中こそ謝罪をして許しを求めるべきではないのでしょうか。彼らには私に命を与える資格はありません。
              ファルザード.キャマンギャル
        キャラジ市、ラジャイー刑務所ー感染病ブロックより
              08年7月15日