政治犯の死刑に対する国際連帯(イラン.日本.アメリカと...)!


先程に頂いたメールの和訳です:
国際連帯のメールと、教師組合員のファルザードさんに対する拷問とレープの実態を読んで見て下さい!そして...!?
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親愛なるスティーブ・ゼルツァーさん(UTLA労組)、
ファルザード・キャマンガルの死刑執行に反対する私たちのキャンペーンへの支持に感謝いたします。私たちは、国内外での団結と活動によってファルザード・キャマンガルの命を救うことができると確信しています。貴10月5日の企画は非常に素晴らしいと思います。私たちは、10月5日の闘いに注目を集めるため、EIやその支部教員組合などすべての国際的な労働者組織に接触を試みます。 ファルザード・キャンペーンを教員組合や諸組織の討論のテーブルに載せるために、できることは何でもしようと思います。残念ながら私たちは、ファルザード・キャマンガルの生と闘いに関するビデオを所持していません。 しかし、イランでの労働者の闘いに関するいくつかのビデオはあります。 私は、刑務所からファルザード・キャマンガルが書いた手紙をもらいました。 貴方に有益と思われますので、それをここに添付します。
他の情報が必要ならお知らせ下さい。ファルザード・キャマンガルのキャンペーンに関する貴諸行動につきお知らせ願えれば、とてもありがたいです。

連帯を込めて、
ハッサン・サーレヒー(WPIー国外組織の中心メンバー)
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<ラジャイシャール刑務所の政治犯、ファルザド・キャマンガルからの手紙>

自由の名において

私はファルザード・キャマンガルといいます。"シーヤマンド"とも呼ばれており、12年間、カムヤラン市で教師をしています。私は、逮捕の1年前、"ホナレスタン・カローダネッシ"で教えていました。私は、カムヤラン教員労組のクルド支部の組合員です。 組合が非合法化される前は、広報を担当していました。 私はまた、最後は発禁とされた新聞"マーナメイー・ファルハンギ・アムゼッシ・ロアイヤン" の作家協会のメンバーでもありました。 私はカムヤランの"ツィヒト・メーヤリ"協会の執行委員でもありました。 2005年から私はジャーナリストとして働き、またイランの人権活動家の一人となりました。
私は2006年7月、私の兄の治療を看るため、テヘランに来ました。 私の兄はクルド政治活動家です。 テヘランに着くと私は逮捕されて、知らない場所に連れて行かれました。そこは非常に狭くて暗い地階室でした。 そこは、毛布、敷物、敷布などなく、ガランとしていました。彼らは私をある部屋に連れて行き、面接しながら私の民族を尋ねました。 私がクルド族民だと言うと、彼らは私の全身をムチ打ちしました。 彼らはまた、私の携帯電話に保存してあったクルド音楽を理由にして私をムチ打ちました。彼らは私の手を縛り椅子に座らせ、私の体の敏感な部分に圧力をかけました。 そして私を裸にし、木片などの様々なもので私をレイプして脅しました。私の左足は、この時ひどい傷を負いました。 また、頭を殴られ、電気ショックを受け意識を失いました。 私は、身体をコントロールすることが出来なくなり、原因不明の振るえを抑えきれなくなりました。彼らは私の足を鎖でつなぎ、私の体の敏感な部分に電気ショックを加えました。激痛が走りました。後に私は、エビン刑務所のセクション209に移送されました。 エビン刑務所に入れられたらすぐ、私は目隠しをされ、小さな部屋で彼らに殴られ蹴り上げられました。
次の日、私はサナンダージュ市に連れて行かれました。私がサナンダージュ刑務所に入った瞬間から、私は侮辱され容赦なく殴られました。彼らは、私を朝7時から翌日まで椅子に縛り付け、便所に行くことさえ許しませんでした。私はそのままで用を足すしかありませんでした。 数々の殴打と拷問の後に、再び私はエビン刑務所のセクション209に移送されました。 私は、刑務所の1階の部屋で尋問され拷問を受けました。
 2006年8月27日2006、拷問のゆえに、彼らは私を刑務所医師に診せねばならなくなりました。 そして、医師は、私の背中、首、頭、大腿部、足に拷問とムチ打ちの痕を記録することとなりました。
 8月と9月は、私は独房No.43に入れられました。拷問と殴打が耐えられないものであったため、私は止むに止まれず33日間のハンガーストライキを行いました。 彼らが私の家族を迫害し法廷に呼び出し始め、また自分自身を拷問から解放するために、私は階段から飛び降りて自殺をしようとしました。
また1ヶ月の間、私は刑務所1階の極めて小さく臭い房に入れられました(房No.113)。 この間私は、面会はもとより家族への電話も許されませんでした。さらに私は、3ヶ月の間、新鮮な空気に触れることも許されませんでした。
 3ヶ月の後に、私は他の囚人がいる房No.10に移され、そこに2ヶ月いました。その時点でまだ、私は家族や弁護士との面会を許されていませんでした。
10月に、私はまだ起訴もされておらず、またはどのような犯罪でも有罪とされていないのに、エビン刑務所からケルマーンシャーの情報省刑務所に移送されました。 そこは、政治犯に対する冷酷な拷問と殺人が行われてきた小さな暗い刑務所です。彼らは私の衣服を全て剥ぎ取って、私を殴りつけた後に、汚い一式の衣服をよこし、私の房に連れて行きました。 そこは、私の叫び声を誰も聞くことができない小さな「秘密房」でした。 大きさは165cm×50cmでした。天井から2つの裸電球がぶら下がっていました。 以前は便所だったので、とても臭く寒い房でした。 汚い毛布だけが置いてありました。房があまりに小さいので、 寝ている間に頭を壁に突き当てました。呼吸するには、私は、ドアと床の間の隙間に頭を降ろさねばならず、それでやっと呼吸ができました。 また奇数時間ごとに、彼らは私の眠りを妨害するために、ドアを激しく叩きます。私が着いてから2日後に、彼らは私を尋問部屋に連れて行き、何も聞かずに私を殴り始めました。そして、彼らは房に私をつれて帰りました。彼らは、私を眠らせたり考えさせたりさせないために、ラジオを大きい音でかけます。24時間で便所は2回、1ヶ月に短いシャワー1回しか許されませんでした。私が受けた拷問は次のようなものです。
1. フットボール試合: これは、このタイプの拷問に彼らがつけたニックネームです。彼らは私を素っ裸にし、4〜5人の尋問者が私を取り囲み、私を殴ったり蹴ったりしながら次に回していきます。私が崩れ落ちても、彼らは私をののしりながら殴り続けます。
 2. 私の頭の上に両手を載せたまま、数時間も一本足で立ち続けることを強制します。私が疲れると、尋問者たちはまた殴り始めます。彼らは、私の左足が拷問で負傷していることを知っていたので、より強い力が左足にかかるようにします。彼らは、誰も私の叫び声を聞くことができないように、コーランテープを非常に大きくかけます。
 3. 尋問の間じゅう、彼らは私の顔を殴り平手打ちを加えます。
 4. 刑務所の地階に拷問部屋がありましたが、その入口は、乾燥パン粉を詰めた黒いごみ袋で隠されていました。彼らが夜に私を連れ込む別の拷問部屋もありました。私の腕と足をベッドに縛りつけ、取り分け上肢、下肢そして背中を狙いムチ打ちを加えました。それによる厳しい痛みで、私は数日間歩くことができませんでした。
 5. 冬の非常に寒い日でした。 彼らは、私を尋問部屋と思われるとても寒い部屋に、尋問などせずに一日中放置しました。
 6. ケルマーンシャー市では、彼らは私の体の敏感な部分に感電ショックを加えました。
 7. 私は、歯ブラシやねり歯みがきを使うことを許されませんでした。 また彼らは、食用にはならない古くてくさい食べ残しを出してきました。
私への圧力をさらに強めるため、彼らは一切面会も許さず、私が愛した女性も逮捕しました。 彼らは私の兄に対し問題をでっち上げ逮捕しました。 私は、汚れた衣服と毛布だけで汚い房に入れられたため、酷い皮膚病に苦しみましたが、医師に診てもらうことを許されませんでした。
私が受けた残酷な拷問に抗議するため、私は12日間のハンガーストライキに入ることを余儀なくされました。拘禁の最後の15日間、彼らは私の房を、暖房無しのより汚く臭い房に変更しました。 私は毎日、侮辱され、ののしられ、殴打されました。時には殴打の結果、意識を失うこともありました。ある夜、彼らは私を地階の拷問部屋に連れて行き、衣服を剥ぎ取って脅迫しレイプしました。 私自身をこの拷問から解放するために、私は何度も頭を壁にたたきつけました。 彼らは女性と道義的に許されない関係を持ちながら、私に対して猥褻な犯罪をでっち上げ自白させようとしました。私は、他の房からの叫び声や悲鳴を聞くことがありました。自殺する囚人もいました。
2006年3月19日に、私はテヘランのエビン刑務所のセクション209に移送されました。 私は、雑居房である121区に入れられましたが、私には一切の面会も許されませんでした。私の親類が休みのなく逮捕され、その親類たちとの接触が絶たれているため、私は、精神的・肉体的な重圧の中にいました。
私の訴訟は、2006年5月、最終的に革命法廷・第30部に回されました。尋問者たちは、私を死刑か長期投獄にするため全力を尽くすと言って脅しました。彼らはまた、もし私が有罪でないと判決されたら、「私を法廷外で処理する」と断言しました。彼らは、私がクルド民族であり、ジャーナリスト、人権活動家であることとても憎悪しました。 彼らはまた、私への拷問を止めませんでした。
テヘランの革命法廷は、私の訴訟はその管轄外であるとし、サナンダージュ市に移送するとしました。 諸個人と人権組織の私への支持が増えだしたため、尋問者は私に一層の敵意を示し、圧力を増大させました。2006年8月に、私はサナンダージュ刑務所に移送されました。この刑務所は、私にとって凄まじい悪夢、私が生きている限り忘れることができないところとなりました。なんら新たな告訴もないに関わらず、私の到着の直後から、彼らは尋問と拷問を開始しました。サナンダージュ刑務所には、1つの本廊下と5つの小さい廊下があります。 彼らは、規則的に私の房を移し変えました。ある日、多くの守衛を伴った刑務所長が、何の理由もなく私を殴り始めました。私を房から引きずり出し、地下の尋問室につながる18段の階段で私を殴りだしたのです。彼らは私の後頭部を殴りつけ引き倒したうえ、階段を引き摺り下ろしました。私は、彼らがどのようにして私を引き摺り下ろしたのか記憶にありません。私が意識を取り戻し目を開いた時には、頭、顔、わき腹に非常な痛みを覚えました。
彼らは、私が意識を取り戻したとわかったら、再び私を殴り始めました。 彼らは約1時間私を殴った後、18段の階段を引きずり上げ、第2通路の非常に小さい房に私を投げ入れました。 そして、私が意識を失うまで、2人の守衛が再び私を殴り始めました。 私が意識を回復した時に、午後の祈りの声が聞こえていました。 私の顔と衣服は血に覆われていました。 私の顔は膨れ上がり、全身は殴打により黒く青変していました。私は動くことができませんでした。数時間の後に、彼らは私の体と衣服を洗い流すため、私をシャワー室に投げ入れました。彼らは、私にぬれた衣服を着させました。 私の体調が非常に悪くなった夜の2時ごろに情報省職員が私の状態を見て、刑務所外の医療施設に連れて行かざるを得なくなりました。 歯とあごの負傷のため、私は数日の間、何も食べることができませんでした。私がより寒さに苦しむように、彼らは夜に、私の房の窓を開け放ちました。彼らは私に毛布一枚もくれないため、私は暖を取るのに、汚いカーペットを身体に巻きつけざるを得ませんでした。私は、面会、電話、そして新鮮な空気に接する機会を与えられませんでした。 私はまた、地階の尋問室で何回となく殴りつけられました。私のこの状況に抗議するために、私は5日間のハンガーストライキに入らざるを得ませんでした。彼らは地下室の壁に私の頭を打ちつけ、地下から私の房にたどり着くまで、私を殴り続けました。サナンダージュやケルマーンシャーでは、私に対して新たな告訴は全くなされませんでした。
 「チキン・カバブ」と呼ばれる有名な拷問は、刑務所長が一連の拷問を統括している時はいつでも常用されました。彼は私の手足を縛り、床に投げ出してムチ打ちを加えました。
また囚人の叫び声とすすり泣きが聞こえましたが、その多くは女性でした。彼らは拷問と尋問の後に、地階の浴室で私の衣服をわざわざ濡らし、それを着せて私を房に投げ入れ、夜には、房の窓を開け放つのです。私は、サナンダージ市で約2ヶ月間、独房にも入れられました。 サナンダージュ法廷も、私の訴訟に管轄権がないとして、またテヘランに移送しました。肉体的・精神的拷問と、計8ヶ月の独房監禁は、私の精神と神経へ非常な悪影響を残しました。エビン刑務所のセクション209の独房で一夜を過ごした後、私はセクション7に移送されました。そこでは、囚人に不法な薬剤が大量に使用されています。
2007年11月18日に、私はラジャイシャール刑務所に移送されました。そこは、殺人、誘拐、武器関連で有罪とされた人たちは収監されている極めて危険な刑務所です。

敬具

ファルザード・キャマンガル
2007年11月23日、ラジャイシャール刑務所にて