労働者革命30周年とイスラムファシズム政権!(1)


革命は社会の歴史的な最大の決断です!

世俗主義と女性の敵、ヒトラーホメイニ師

ヒジャブは女性の刑務所、社会的権利主張の弾圧武器、性的アパルトヘイト政策です!

政治犯のイラン大衆の解放を!

89年からホメイニの代わり、独裁者のハメネイ

歴史のゴミ箱!

●反動なイスラム政権を支持して来たのは欧米政権とそのメディア、国内のイスラム愛国主義勢力でした!
●革命の弾圧を可能にした最大の原因は長年の独裁政権の影響と労働者組織(党)の在無でした!
イスラム政権は革命の殺し屋であります!
●冷戦時代の欧米にとってイスラム政治運動は中東の社会主義運動の広がりを押さえるための武器でした。
http://www.bbc.co.uk/persian/indepth/ir_iran_30_revolution.shtml
http://www.voanews.com/persian/2009-02-06-voa9.cfm
http://www.dw-world.de/dw/function/0,,12215_cid_4015561,00.html?maca=en-en_nr-1893-xml-atom
http://www.radiofarda.com/content/f3_revolutions/1381230.html
大きな刑務所のイランとイスラム政権!
2月10日,イラン労働者革命の30周年記念日でした。ここ数日の間で国内外のメディアから革命の記憶を取り上げていました。様々な組織の機関紙をはじめて、BBC、CNNやドゥブレ.ウェレチェ、ガーディアン、シュピーゲルなどと言ったメディアが当時の写真、映像、資料を載せて分析にあたっていました。1979年の革命の実態について30年経った今でもイラン.イスラムファシズム政権及び上記メディアもまた共通語を使い続けています。それは「イスラム革命」と言う言葉です。では、このプロパガンダの担いとは何か。今ではメディアは革命を「暴力」とか、「弾圧は革命に付きもの」、と言うふうに解釈して宣伝していますが、これらの問題について今後連続的な記事で、多少のイラン歴史に触れながら書いて行こうと思います。
1979年の革命について我々イラン労働者共産党(WPI)の分析
 イラン労働者のこの30年の闘いの歴史であるWPIのニューチャンネルTVもまたこの数日の間に革命の記念日を取り上げていました。このTVの開始から二年近く経っていますが、国内外でますます人気を広げっています。ニューチャンネルは現時点で、日曜日を除いて、毎日3〜4時間の生放送があります。その間、特に国内から寄せられている電話は止みません。もちろん危機感から、悪口ばかりを言いながら、連絡して来る情報機関の連中の事mぽあります。だが、イスラム政権及びこんな連中に対応し、怒っているのは若者、女性、労働者、学生と教師と言った大衆であります...。
 これらの電話から幾つかを紹介しようと思います。番組の初めにWPIの中心メンバーであるジャーヴィード.ケイワーンからの説明がありましたが、その後ある若い男性からこのような電話があります。「この革命の実態とそれを弾圧した汚い連中についてここまで本格的な話を聴いたのははじめてです。多くの人々を殺し社会をどんぞくに陥れていたボーズ政権をとても許せない...」。彼がきっと革命後に生まれて来た人間だったと思います。
 主に連絡していたのは革命の参加者、元政治犯イスラム政権から何らかの被害を受けている男女でした。一貫して皆から訴えられた事は、「こんな反動な政権を望んで革命を起こした訳ではありません。革命の目的は自由と安定した暮らし、より良い社会を作り上げて行く事でした」、と言う話でした。
 85歳の男性からのこんな感動的な電話もありました。「その頃の出来事とこれまでの流れを誰も忘れたり許しません。そう、50年あまり続いた独裁パーレビ体制に対して革命を起こした我々の目的はどんなもので
あったとしてもボーズ政権ではなかった事は確かです。連中はどこから出て来たかの話は別で、激しい抑圧を加えながら我々から革命を奪った事実に違いありません。この事実と長年の苦しみについていくら語っても足りません。でもこの連中にはきちんと知らせるべきです。我々は弾圧されて、一時的には後退しても決して諦めてはいません。今、孫たちを集めて一緒にニューチャンネルを観ています。貴方たちの話は長年と私の心に積っていた話そのものです。労働者共産党を支持し、79年と同じように皆で力を合わせてこの政権を倒しましょう。今度我々にはきちんとした組織があります!」...。
 このように、イラン歴史の最も重要な出来事である79年の革命について若者から年寄りまでは熱心に考えて語っています。そうです、革命の本当の記憶は庶民のところにあります。
 85歳の男性の話を聞いて私はある事を思い出しました。革命の時にまだ11歳だった私はある日83歳のおばあちゃんからこんな話を聞きました。当時、「ホメイニ師がイランに戻って支配権を握ようとしている」、と言った事は話題になっていました(パリーに居たホメイニ超本人は、支配の座につくつもりはないと言っていました。が、今のイランでは当時のビデオテープを持つ人間が逮捕されてしまいます)。この話を聞いたおばあちゃんは驚いた顔をしながらこんなふうに意見を述べてくれました。「聖職者は支配権を握ってじゃ大変な事になりますよ。決してあってはいけませんよ!」、と。8人家族の中で唯一として祈りをしていたおばあちゃんの考えはこのようでした。やはり母親側のおばあちゃんもまた同一の考え方を持っていました。
 確かに以前はシャリアティ−.アリ、アーレアハマド.ジャラル、バザルガン.メヘディ(革命後の臨時政権の首相)などと言ったブルジュワインテリが作本に宗教政権を称えていました(バザルガンは後に(94年死亡)「政教分離」の本を出版した}。どうも、このインテリよりおばあたちの方は正しかったようです。が、読み書きさえ出来なかったおばあちゃんたちは何故そのように考えていたのか。それにはきちんとした理由と歴史的な背景があったからだと思います。実際、おばあたちんたちにとって1979年の革命は三度目に体験する革命でした。はじめての革命は1906年のイラン立憲革命です。(この頃の歴史について後に触るつもりですがとりあえずWIKIPEDIAの記事を参考に載せますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%AB%8B%E6%86%B2%E9%9D%A9%E5%91%BD)。当時の革命でアゼリ州は中心となって、長年と激しく盛り上がっていました。やはりその時も宗教とボーズ連中の動きはマイナスでした。その後おばあたちは一時的に家族でロシア側のアゼリ州に移住して行きますが、そこで1917年のロシア革命を目の辺りにします...。と言う意味でこのおばあちゃんたちは生きた歴史そのものでした。
 ヒトラー同様のホメイニとルンペンヒズボラ連中はいったいどこから出て来たのか。この質問に関しては先ずWPI−国内外代表員委員長のキャリーミ.アスカルさんの貴重な話を参照にして貰いたいと思いです。
 学生運動に係わっていたアスカルさんは1974年に逮捕されて、革命の力で解放されるまでは刑務所に居ました。刑務所内の当時状況についてアスカルさんはこのように指摘しています。トルコもMET,イスラエルのMUSADに続き卑劣さで有名だったパーレビのSAVAKによって多くの人々が逮捕されていました。これらの学生と労働者は主にラディカルな考えを持っていました。私の居たエビーン刑務所のセッションの中に300名ほどの政治犯が閉じ込められていましたが、その中で宗教的な考え方を持っていた人物はわずか2名でした。他のセッションでもその位に居て、反動的な考えを理由に皆から孤立されていました。例の2名は後に大統領になったレジャーイー.モハメドアリ(80年に死亡)と、情報機関のトップにいながら多くの優秀な男女の拷問と処刑を執行したラージェワルディ(05に死亡)でした(こんな卑劣な人物がハータミ大統領時代に改革派になっていました)。あるいはモジャへディンハールグのメンバーですが、当時の彼らも少数派にありました。しかし、今と違ってその頃のモジャへディンハールグの考え方は社会主義的な色に染まっていました...。
 また、当時、学生運動をしていてSAVAKに目を付けられていたアハディ.ミーナさんもこのように証言しています(連れ合いがイスラム政権に処刑されています)。アゼリ州のタブリーズ市の貧しい労働者地域に住み、大学と周辺を活動の拠点にしていました。流れとしては革命は2年ほど前から学生と労働者の立ち上がりではじまっていましたが、抵抗は国全体に広がった時期まではホメイニの名前を知る人はあまり居ませんでした。
活動家の証言はこのようであれば一般人の方は明らかです。
 そもそもパーレビ本人は自分をムスリムと名乗ったり、「神、シャー(王)、国」と言うキャッチフレーズを持っていました。つまり、イスラム教を制限、弾圧した訳ではありません。しかし、宗教の政治への加入に対して批判的で聖職者らをモスクと聖地に押し込んでいた実態には社会そのもの望みが託されていたからでありました。この事実を当時の記憶と情報機関の資料から読み取れます。こんな事実があったからこそ革命後にはパーレビのSAWVAKの資料は公開されませんでした。聖職者は独裁パーレビ体制の打倒を望むところ最後までその体制と友好な関係を持っていました。そして、両方にとって欠かせない問題は社会主義運動の広がりであって、危機感を持った事です。だからこそ革命の弾圧に失敗したパーレビ体制に変わって、革命のスローガンを歌いながら、時期を2年後にして弾圧を完成させました。
 冷戦時代真っ最中にあった欧米政権にとって中東の最も重要な国であり、資源が裕福で、東アジアとヨーロッパの渡り柱でもあるイランでの革命はとても許せないものでした。これ以上にパーレビを支えきれないと阪大した欧米政権はイラクナジャフ市に腐り切っていたホメイニをパリーに移動させました。他方では秘密会談のためアメリカ軍の司令官ホウェイザーをイランに送り出してパーレビ軍のトップと準備を進めてホメイニに従うようにしました。そして、BBC,CNNの脚光のもとでホメイニの帰国が行われました。

つづく
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